2017年12月アーカイブ

忘年会

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IMG_0589.jpg12月22日 福岡市中央区今泉にて株式会社 I B U K I の長崎営業所 福岡本社との合同忘年会を行った、

良い酒を飲んで楽しいひと時を皆で過ごし、今年も未だ九日残っていますので大晦日まで気を緩めないよう毎日を大切にして下さい。 

 乾杯!  乾杯 !。

ビールが旨い、酒が旨い、

もちろん 料理もおいしいが

みんなの笑顔が一番うれしい。

 

嬉しくて楽しい事は一瞬で過ぎてしまい

つらくて悲しい事は永く続く

でも逃げたらいかん 逃げたらいかん

   逃げたら負けたままになる

 

私は未だ未だやりたい事が沢山ある、もしかしたらやりたい事を半分もやっていないかもしれない、今日の酒は一つの節目として思いっきり呑み これからの話を思いっきりしょう、

 明日が来るから楽しい 明日が有るから話をしたい

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恩師が教鞭にたった最初の決して優等生とは言えない普通の学生ともいえない、ちょと変わった学生の二人だったので浮かんでくるのは、私と中川幹彦だけで後は覚えていないとのこと、その言葉に嬉しくなり西尾に駆け付けた。

 45年前の笑顔に迎えられ中川君の懐かしい思い出話が次から次に出てくるが、あの当時の講義の話は全く出てこない、矢上のアパートに押しかけ酒を飲んだ事と誰それがどうだったとか、よく覚えているなぁと感心すると同時に私の頭の中にもその状況がつい昨日のように浮かんでくる、楽しい思い出は誰しもは変わりはしない、だから自然に中川を誘ったのかと実感しながら聞きいてっていた、あの時講義で使った本は今でも本棚に並んでいる。

長崎造船大学と名古屋名城大学との赴任中での一番大きな出来事は私と中川を教えたことと思いきやそうではなかった、そらあそうだろう!、それは国立でなく私立大学の教授がノーベル賞を受賞した驚きの出来事、その式に参列された時の恩師の話を聞き終える頃にはもう帰る時間が迫っていた。

中根俊晴ゼミ 一回生 中川幹彦 伊吹博 恩師の自宅を訪問する。

IMG_0007_NEW_01.jpg懐かしい恩師に逢いに行く。

何時もより二時間前に床についたが眠れなかった、ましてや何時もより二時間前に目が覚めた。

 

みんな !盛り上がっているかーぃ 

さーあ撮るぞ、イチ 二ィ サン

 

どの顔をみても みんな若いなぁ。

 

    よーし 決めた この写真を持って 懐かしい恩師に逢いに行こう。

想い出

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赤レンガのアーチ型の門を飛び出し駆けずり廻っている、

薄汚れた服で蒸気機関車に父母姉兄妹私とが乗っていて、途中のホームで母が必死に泣きながら男の人と女の人の手を必死に握っている、

玄関で女の人から父母姉兄妹私とがどなられている、

楽しい思い出は沢山あるのに出てこない

どうして何だろう  なぜなんだろう。

楽しかったことや嬉しかった事を思い出したいんだけど思い出せない。

どうして何だろう  なぜなんだろう。

周りの情景は浮かんでくるが、

すぐ消えてしまう。

 

どうして何だろう なぜなんだろう。

ゆっくりと浮かんでくれればいいのに

すぐ消えてしまう。

 

声を掛けようとするが声が出ない。

 とりとめのない話をしたいんだけど声が出てこない。

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あれは二十代の後半だった、今はファーストフードのトップメーカーになった、日本の端長崎から福岡へそして大都会の東京進出しローカルフーズの「長崎ちゃんぽん」をメージャーなフーズへと夢を語っていた会社で働いていた、

そうか「夢を形にする」それは面白い、入社試験でのこの会社で何をしたいか一枚の用紙に書いた内容は今でも「はっきりと覚えている」。

あの時、私の名刺の肩書は工程開発と印刷されていたが、どの上司もいったいぜんたい何をするのかするべきか知っても分かってもいる人はいなかった。

貴方の夢いや会社が福岡へ進出するため何か起爆材となれるような機械を作って欲しいと当時の副社長か゜夜通し熱く語りかけてくれた

それが何なのかは私に分からんが「伊吹くんに、それを創って欲しいんだ」

それがやがて自動餃子焼き機械となった。

あの当時 構想を誰に話しても、そんなもの誰がつかうのか、鍋に火をいれその後適当な温度になったら餃子を並べればいいんだ、あとは裏がきつね色かわると皿に盛りつけ、はい出来上がり、お前が思うよう焼き器なんて要らないよと云う仲間が殆んどだったが思いが形となった。 東京晴海レストランショーで自動餃子焼き器は大変な人だかりとなった、そりゃーそうだろう、今まで無かった焼き器だから。   ずいぶん経った後、副社長から「やっぱり伊吹君は東京へ行くべきだよ、東京へ」とレールを敷かれたが、 それがやがて何かに変わってきた。

 幼い時に母から自分の想いを形にするために我が家から離縁され日本の財閥となった人がいる博もそこまで成らなくていいが、自分の思いを見つけ形にして欲しい、できたらそんな大人に成ってくれれば。お父さんも夢を抱いて満州へ出ていったが戦争と抑留、後は赤思想と世間から見られたが、今でも頑張っている。 その言葉を思い出し退職をした。

会社のレールに乗っかっかって仕事をしたく無くなった男のすることは、己でレールを敷き己で機関車を走らせることしか道はのこってなかった。

その結果 失ったものも沢山あったが得たものも沢山あった。

今度は自分の為に長崎から福岡へ進出したが東京までは未だ進出できてはない。

 

伊万里大里の神社に行くと 凛として見つめている伊吹(藤山)雷太像から     

      「伊吹 博君 来るのが遅い」と叱られているようだ。

      

   ついこの前 藤山雷太の子孫と連絡が取れるようになりましたが

   まだ雷太の実子( 伊吹震 )である伊吹の姓を継いでいる子孫とは未だ連絡はとれてはいない。

早いなあ

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早いなあ もう師走になってしまった、

師走は何かと忙しいから すぐに正月がくる、 正月が来たら  あぁ また ひとつ歳をとる、

  母は私が二十歳のとき宣告を受け、  あと二年か三年です・・・・・。

毎日が つらかった 悲しかった。   

どうしてか 師走になると日めくりカレンダーめくりたくなかった、

 その日が来てしまった。

 人生50年は早すぎるょ

 何んにも母親孝行も出来ずじまい。

 あの時は 3年半程の務めをやめ 家で受験勉強していたから母とよく 話をしていた、すこーし風邪をひいた ようだからひろしのベットで横になっ ていいねぇとよわよわしい言葉、  私は母のやさしい寝顔を みつめていた、

その夜に母は 家族の目の前で吐血をしてしまった ・ ・。

 

 師走になるとすぐ母の命日がくる。 

 早いなぁ人生50年、あの後、独り家にいると涙がいつも溢れていた、

 さびしくて 町へ出ると、母と同じ位の人を見れば今度は悲しくて仕方が無かった。

 

 早いなあ 母親より10年以上も長く生きれたから ちょつぴり孝行できたなのかなぁ、

 命日には墓参り行こう、  まだまだ 博は あとひと頑張りしますと報告しよう。    

いいなあ

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金色の葉を

  一心不乱に
       
          集めている

   かわいい手で  
          
                       集めている。
 
      

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電話の向こうに懐かしい人がいる


取りとめのない言葉しか出てこない。




そういえば、
 電話器のうえに十円硬貨を積み上げて話していたんだ。

あの電話ボックスは街角にはもう今は無いが、
 
いまでもあそこを通ると思い出す、
 
あぁ 寂しさがこみ上げてくる




電話の向こうに懐かしい人がいる。


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